マラッカの地名の由来とされる「マラッカの木」

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 地理、気候
 人口、人種
 政治形態
 宗教、言語
 歴史
 ブミプトラ政策
 交通
 動物、植物
 果物
10  産業
11  学校教育
12  日本との関係
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【マラッカの地名の由来】
 パレンバン(スマトラ島南部)の王子パラメスワラは、敵に攻められ各地を転々としていました。ある日、お供を従えて狩りに出かけました。くたくたに疲れて木陰で休んでいたときのこと、猟犬がネズミジカを小さな流れに倒れかかっていた木に追いつめました。驚くことがここで起こりました。木の半ばまで追い込まれたネズミジカがそこで立ち止まり、猟犬を川に蹴り落としてしまったのです。 これは普通のことではありません。というのは、ネズミジカはとても臆病で弱い動物と思われていたからです。これを見たパラメスワラは、ここは何か特別な場所で、ここに国をつくればきっと栄えることだろうと考え、お供もその通りだと賛成しました。そうしてパラメスワラは、休んでいたその場所の木の名前、つまり「Melaka Tree」の名前からこの地を「MELAKA(マラッカ)」と名付けたというのです。




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 マレーシアは、マレー半島の南半分(西マレーシア)と、ボルネオ島の北部(東マレーシア)から成り、いずれも北緯1〜7度に位置しています。国土面積は約33万ku(半島部分の西マレーシアが13万ku、ボルネオ島北部の東マレーシアが20万ku)で、日本全土の約9割になります。また、半島部の60%、東マレーシアの70%は森林です。
 赤道に近く、年中熱帯性気候の常夏で、四季の変化はありません。気温も年間を通じて変化が少なく、1日の平均気温は26〜27℃です。年間を通じて、昼は熱帯特有の強い日差しでかなり暑い(通常31℃前後)ですが、夜間から早朝にかけては23℃前後に下がり、日本の真夏よりはむしろしのぎやすくなります。昼夜の長さも年間を通してほとんど同じで、朝夕の薄明かりは短時間です。日本との時間差は1時間で、日本で正午12時のとき、マレーシアでは午前11時です。

 アジア季節風の影響で、降雨量は時期、地域によってかなりの違いがあります。南シナ海から北東モンスーンの吹く10月〜2月が雨期にあたり、マレーシア全土で降雨量が最も多い時期になります。特に半島東岸、東マレーシアのサバ、サラワクで雨が多く、しばしば水害が発生します。
 一方、インド洋から吹く南西モンスーンは5月〜9月に半島西岸地域に雨をもたらします。このモンスーンはスマトラ島の山地にぶつかり多量の雨を降らせ、マラッカ海峡を越えマレー半島に達するころにはかなり湿気を失って、むしろこの時期はマレーシア全体では雨の少ない乾期となります。
 年間雨量は平均2000〜2500oで、2つのモンスーンによる雨期と乾期の間の3〜4月には雷を伴うスコールが多発し、最も高温多湿になります。

マレー半島の南半分とボルネオ島の北部から成るマレーシア




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 2000年の総人口は2327万人で、このうち7.4%が外国人になっています。80%は半島マレーシアに、20%が東マレーシアに住んでいます。人種構成は、ブミプトラ(土地の子)と呼ばれるマレー系が65.1%、中国系が26.0%、インド系が7.7%、その他1.2%となっています。
 西マレーシアの開発の進んだ西海岸諸州には中国系が多く、マレー系、インド系も西マレーシア全体に及んでいますが、東マレーシアにはイバン、カダザン、パジャウ、チルートなどの原住民が多く、サワラク州の約半分、サバ州の4分の3は非半島系、非中国系です。
 人口密度は1ku 当たり70.5人で、ASEAN5ヶ国の中では最も低いです。都市の人口では、クアラルンプールの約130万人、ジョホールバルの102万人、イポーの47万人が目立っています。

チャイナタウン

  人  口 (万人) 面  積 (万ku) 人工密度 (人)
半島マレーシア 1,852 13.2 140.3
東マレーシア 475 19.8 24.0
全  体 2,327 33.0 70.5

  州 名 人口(万人)
@  ペルリス 20
A  ケダ 165
B  ペナン 131
C  ケランタン 131
D  ペラ 205
E  トレンガヌ 90
F  パハン 129
G  セランゴール 419
H  ネグリスンビラン 86
I  マラッカ 64
J  ジョホール 274
K  サバ(東マレーシア) 260
L  サラワク(東マレーシア) 207
特別区  クアラルンプール 138
特別区  ラブアン
<2000年国勢調査より>

西マレーシア(半島マレーシア)

東マレーシア(ボルネオ島北部)




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 マレーシアは、半島マレーシア11州、東マレーシア2州の計13州で構成される連邦国家です。前者11州とは北から順に、ペルリス(20万人)、ケダ(165万人)、ペナン(131万人)、ケランタン(131万人)、ペラ(205万人)、トレンガヌ(90万人)、パハン(129万人)、セランゴール(419万人)、ネグリスンビラン(86万人)、マラッカ(64万人)、ジョホール(274万人)で、後者の2州はサバ(260万人)、サラワク(207万人)です。(2000年国勢調査より)  このほかに、首都クアラルンプールとラブアン島は連邦政府直轄の特別連邦区となっています。政治形態は立憲君主制で、元首の国王は、「サルタン」のいないペナン、マラッカ、サバ、サラワクを除く9州の「サルタン」による互選で決まり、任期5年の持ち回り制になっています。

マラッカ川とマレー人居住地

 国王は内閣総理大臣を任命し、国会を通過した法律を裁可するほか、内閣の助言に基づいて行政権を行使し、陸海空の3軍を統率します。また、国教(イスラム教)の首長でもあります。
 連邦議会は上院と下院から成り、院内閣制をとっています。上院は国王の任命する議員と各州議会選出議員で構成されます。下院議員は国民の直接選挙で選ばれ、憲法上、下院の方に大きな権限が与えられています。元首(国王)の下に立法、司法、行政の三権分立機関があります。

番 号 州 名 州 都
@  ペルリス  カンガー
A  ケダ  アロスター
B  ペナン  ジョージタウン
C  ケランタン  コタバル
D  ペラ  イポー
E  トレンガヌ  クアラトレンガヌ
F  パハン  クアンタン
G  セランゴール  シャーアラム
H  ネグリスンビラン  セレンバン
I  マラッカ  マラッカ
J  ジョホール  ジョホール・バル
K  サバ(東マレーシア)  コタキナバル
L  サラワク(東マレーシア)  クチン




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マレーシアの国教は、憲法によってイスラム教と定められていますが、個人の信仰の自由も認められています。

マレーシアの至るところにあるイスラム教の「モスク」

 大別すれば、西マレーシアでは、マレー系がイスラム教徒、中国系が儒教、道教、仏教などの信者、インド系がヒンズー教徒であり、このほかヨーロッパ系住民やユーラシアン系はキリスト教徒が多く、北部の少数タイ系住民には仏教徒も見られます。  一方、東マレーシアでは、先住民族が土着信仰で、また、昔からキリスト教の伝道が活発だったため、イスラム教、中国系宗教信者のほか、キリスト教徒も相当数存在します。
 国教であるイスラムの首長は各州のサルタンで、サルタンのいない州では、国が任命する州主席大臣が首長となります。
 多様な民族で構成されるマレーシアでは、日常、マレー語、英語、中国語(北京語、広東語、福建語、潮州語など)、タミール語など多数の言語が使用されています。  しかし、西マレーシアでは1967年から、東マレーシアでは1973年から、マレー語が「国語、公用語」と規定され、それまで公文書や教育上の言語として使用されてきた英語にとって代わることになりました。  現在、家庭に送られてくる公共料金の請求書、道路標識などはすべてマレー語表示であり、クアラルンプールの街中には”Cintailah Bahasa Kita!”(私たちの言語を大切にしよう)の看板があちこちに立てられて国民にマレー語使用を呼びかけています。
 しかし、英語は第2言語として小学校から教えられており、ビジネスにおいても広く使用されています。クアラルンプールなどの都市部では英語がほぼ通用しますが、地方ではマレー語でないと通じないところもあります。

ヒンドゥー教徒の聖地「Batu Caves」、272段の階段を上っていく。




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 インド洋と南シナ海の中間に位置するマレーシアは、古くから、東の中国と西のインドをつなぐ重要な交通路であり、移民の通路でもありました。しかし、中国、インドのように、古代の大文明はここでは生まれず、また熱帯モンスーン地帯のためか、遺跡もさほど古いものは残されていません。マラヤ史家プラデルによれば、「マラヤ半島で発掘された最古の石碑は、西暦5世紀のもの」とされます。

ポルトガルが造り、オランダが要塞として利用し、イギリスが破壊したマラッカにある「サンチャゴ砦」

<マラッカ王国>
 7世紀後半、スマトラのパレンバン付近に海洋型国家シュリウィジャヤ王国が興り、ケダ、クランタン、トレンガヌ、パハン辺りまで支配を伸ばしました。14世紀末、スマトラの王子パラメシュアラがジャワのマジャパイト国王に追われ、マレー人を従えてマラッカに移住、マラッカ王国を建てました。
 当時シャム(タイ)のアユタヤ朝がマレー半島に勢力を伸ばしており、パラメシュアラはアユタヤ朝に服従し、貢ぎ物を納めました。しかし、15世紀に明の使節がこの地を訪れるようになってから、パラメシュアラはシャムから独立し、明の朝貢国となりました。
 イスラム教がマレー半島に入ってきたのは13世紀といわれ、パラメシュアラの後を継いだムガト・イスカンダル・シャーがイスラムに改宗した最初の王と言われています。その死後、マラッカは再びタイ軍の攻撃を受けましたが、国王シュリ・パラメシュアラ・デーバーシャーは抵抗し、マラッカの独立を守りました。
 国王は、勝利後、名称をサルタン・ムザファール・シャーと改め、このころからマラッカにイスラム教が定着し、国家としての体裁も整い始めました。  国際貿易を土台に発展した王国は、周辺各地に領土を広げ、その範囲はマレー半島南部全域(現在の半島マレーシア)、スマトラ島中部海岸地域にまで及んだと言われています。

<ポルトガルのマラッカ占領>

 1511年アルブケルケ率いるポルトガル艦隊がマラッカを占領、国王マフムード・シャーはジョホール川上流のサヨン・ピナンに移って、ジョホール王国を建てました。
 17世紀に入って、王国はオランダ東インド会社と協力し、1641年、東インド会社がマラッカをポルトガル人から奪いました。次いで1666年、スマトラのジャンビ国との間に戦争が起こり、ジョホール王国の国力を疲弊させました。王国がインドネシア・セレベス島のブギス族を傭兵に招いた結果、王国内部でブギス族の勢力が強まり、王国は次第に分裂状態に向かいました。
 18世紀になって、マレー半島南部には、ジョホール、バハン、ペラ、クランタン、トレンガヌ、ケダ、セランゴールの各王国が分立しました。

<イギリスのマラヤ支配>

 1786年、イギリス東インド会社はケダの内乱を利用して、ケダ州のベナン島を支配、イギリスのマレー半島南部支配のきっかけを作りましたが、ナポレオン戦争の発生で、オランダ海外植民地がイギリス保護下に入ることになっため、マラッカもまたイギリス東インド会社の占領するところとなりました。
 1819年、イギリス東インド会社のスタンフォード・ラッフルズは、シンガポールの植民地化をジョホール王国に認めさせ、続いて1824年には英蘭条約によって、オランダがボルネオを除く現在のインドネシアを支配する代わり、イギリスはインド、マレー半島、シンガポールを支配することになりました。ペナン、マラッカ、シンガポールは海峡植民地と呼ばれてイギリス東インド会社の支配下に入り、1867年にはイギリスの直轄植民地に組み込まれました。
 一方、マレー半島北部は、このころシャム(タイ)の支配下にあり、ケダなどのマレー人王国はシャム属領になっていましたが、王国はイギリス東インド会社の力を借りて、シャムの圧力に抵抗しました。東インド会社を引き継いだイギリス政府植民地局は、マレーの各王国と協定を結び、理事官を派遣して徴税権、軍事権、警察権を握り、セランゴール、ペラ、パハン、ネグリセンビランを間接的に支配しました。  1896年、イギリスの植民地行政官スウェッテンハムはこれらの地区を統合し、マレー連合州を成立させ、これによって、マレー半島は、海峡植民地、マレー連合州、そして非連合州と分かれることとなりました。
 1899年、イギリス・シャム国境条約が締結され、ケダ、クランタン、トレンガヌはシャムの属領となりましたが、1909年、シャムはこの3州とペルリス州を治外法権撤廃の代償としてイギリスに譲渡することを認めました。各州サルタンはマレー連合州に入ることを拒否、しかし、同年ジョホール州はイギリス領マラヤの一員となりました。
 ボルネオ島北西部には、古くからブルネイ王国がありました。1841年、イギリス人のJ.ブルックは、内乱の鎮圧に協力したとして、ブルネイ王国の支配下にあったサラワクを入手、1846年にブルック王国を建てました。サバは、1881年から、北ボルネオ特許会社がサルタンから租借して開発を行いましたが、1888年、イギリス政府はブルック王国とサバを保護領としました。

<日本軍の占領、独立、マレーシア連邦の結成>

 1941年末、太平洋戦争が始まり、日本軍は、1942年1月、シンガポールを除くマラヤ全土を占領、翌2月シンガポールを占領しました。
 1945年の日本敗戦後、イギリスはマラヤに独立を供与するため、シンガポールを除くマレー9州とペナン、マラッカを統合し、各民族に平等の権利を与える「マラヤ連合案」を提示しましたが、日本占領時代に優遇されたマレー系住民は、既得権を失うことを恐れて反対し、連合マレー人国民組織を結成しました。1948年、イギリスはマラヤ連合案を修正して、各州のサルタンの権限を強化し、非マレー系住民の市民権取得を難しくしたマラヤ連邦案を提示し、ここに「マラヤ連邦」が結成されました。  これを不満とする中国人が一時ゲリラ戦を展開しましたが、イギリスは中国系住民にも政治参加の機会を与えることで対処しました。
 1949年、中国系住民の政党として馬華公会が結成され、連合マレー人国民組織と馬華公会は連合協定を結びました。
 1954年、インド人の政党マラヤ・インド人会議も参加し、連合マレー人国民組織、馬華公会、マラヤ・インド人会議による連盟党が結成されました。1955年7月の第1回総選挙で連盟党は圧勝し、1957年8月31日、マラヤ連邦は完全独立、アブダル・ラーマンが首相に就任しました。
 イギリスの保護領だったサバ、サラワクは直轄植民地となり、段階的に自治の供与が行われたラーマン首相はマラヤ連邦、シンガポール、サラワク、サバ、ブルネイから成るマレーシア連邦の結成を呼びかけ、1963年9月16日、ブルネイを除くマレーシア連邦が発足しました。しかし、財政問題などをめぐってシンガポールと連邦政府の対立が激化し、1965年8月9日にシンガポールは連邦から離脱しました。
 1963年にマレーシア連邦に1州として参加したシンガポールの首相リークワンユー率いる人民行動党は、マレーシアでは同盟の野党として存在していましたが、シンガポール分裂後、政党としての登録を取り消された後、1966年に民主行動党となりました。同党は「マレーシア人のマレーシア」を標語に掲げ、マレーシアの全人種平等を唱えて、ブミプトラ政策には反対の立場をとっています。




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 マレーシアは、独立以来、@イスラム教を国教とし、Aマレー語を国語として、B先住民族やマレー系民族、つまりブミプトラ(土地の子という意味)と呼ばれる民族に優先的地位を与える、という3本柱の上に、マレー系民族を中心とした国造りを進めてきました。これは、ブミプトラの社会的経済的地位が、中国系やインド系住民と比べ、全体的に低いという背景があったためです。

「WAWASAN 2020(ビジョン2020)」の文字が目立つ

 1969年第3回総選挙直後の5月13日、クアラルンプールにおいて中国系住民とマレー系住民の衝突事件が起こり、178名の死者が出ました。この人種暴動を契機として、マレーシアは1970年8月、国王の名において、@神への信仰、A国王および国家への忠誠、B憲法の遵守、C法による統治、D良識ある行動と徳性の5つを内容とする<ルクネガラ>(国是)を発表し、  1971年3月国会において、言論の自由を制限し、@マレー人の特別地位(憲法に規定されている公務員への採用、奨学金や特定の職業ライセンスの授与などにおけるマレー人の優先権)、A国語としてのマレー語、Bサルタンの地位、市民権などについては、公共の場で討論することを禁ずる憲法改正を行いました。これは改めて政治面におけるマレー人の優先を認識するものです。
 経済面では、1971年から20年の長期計画を新経済政策として打ち出し、1990年終了を見た後、引き続き第2次長期総合計画を推進中で、2020年先進国入りを目指して(ビジョン2020)、その躍進ぶりには目覚ましいものがあります。
 アブダル・ラーマン、アブドゥル・ラザック、フセイン・オンへと引き継がれたブミプトラ政策は、1981年、首相に就任したマハティール首相によって、更に強力に推進されました。マハティールはマレー系国民の経済的地位の向上を目指して、マレー人こそマレーシア近代化の中核とならねばならないと説き、政界、官界の浄化に努めるとともに、「ルック・イースト」政策を掲げ、日本、韓国の近代化を手本にしてマレー系国民の教育、訓練を進めるべきだと訴えました。  それは、彼らが現在法律で保証されている特権に甘えるのではなく、それを保持できる実力を備えなくてはならないというものです。それまで、欧米(特にイギリス)一辺倒だった姿勢を改めるため、イギリス製品不買運動”buy British Last”を呼びかけましたが、これに代わる政策が「ルック・イースト」であると言えます。マレーシアに進出の外国企業も、社員の採用では、管理職、非管理職とも人種による人口比率に合わせねばならないなど、ブミプトラ政策による規制を受けています。
 これらの政策によって、マレー人の大学生数、公務員数は急増し、農村部の開発も大きな前進を見ましたが、その反面、差別されている中国系、インド系住民の不満は小さくありません。多民族国家であるマレーシアにとって、民族の調和は今後も最大の政治的課題と目されています。




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 マレーシアの交通は植民地時代の経済活動の中心であった「ゴムとすず」の輸出を目的とした物資輸送の手段として出発し発展しました。そのため各都市間を結ぶ道路整備の歴史は新しく、現在も整備が進められています。

交通網(鉄道、定期バス、飛行機)

<鉄道>
1885年・・・「すず鉄道」がペラ州のタイピン〜ポートウェルド間で建設される。その後、セレンバン〜ポートディクソン間に延長される。
1909年・・・ マレー半島を縦断するバターワース〜ジョホールバル間が完成する。1924年までには「大陸縦断鉄道」となる。
 現在、半島マレーシアには、シンガポールから半島西部を縦断する「大陸縦断鉄道」と、ゲマスから半島中央部を通りタンパット(タイ)へ伸びる2本がある。東マレーシアには、サバ州のタンジョンアル〜テノム間にサバ州立鉄道がある。
1996年・・・ クアラルンプール市内東部を南北に走るSTAR LRT(高架鉄道)が開通する。
1997年・・・ セントゥル・ティモール〜スリ・ペタリン間を走るSTAR LRTが開通する。
1999年・・・ 市内中心部と東西の郊外を結ぶPUTRA LRTが前線開通する。
2001年・・・ KLセントラル駅がオープンする。
2002年・・・ KLセントラル駅とKLIA(クアラルンプール国際空港)を28分の直行で結ぶKLIAエクスプレスが運行される。
2003年・・・ KLセントラル駅とティティワンサ駅の約8.6kmを結ぶKLモノレールが運行される。

立体交差して走る電車とバス(KL市内)

まるで空港のようなKLセントラル駅

<道路>
 国道1号・・・ 半島西岸部を北から南の端までマレー半島を縦断している。
 国道2号・・・ クラン港からクアラルンプールを通ってクアンタンまで伸びている。
 国道3号・・・ 東海岸に沿ってコタバルからジョホールへ通じている。
 南北高速自動車道・・・ ペナン〜シンガポール間を8時間以内で結び、1994年の始めに全面開通した。
 東マレーシアでは、道路の舗装などを中心に整備が進められている。

高速道路の料金所

<航空>
 現在、半島マレーシアに12、東マレーシアに11、合計23ヶ所の定期便離着陸空港がある。国内線がクアラルンブールを中心に主要都市を結び、その他の都市の間にもほとんど毎日便がある。
1972年・・・ MSA(Malaysia Singapore Airline)がマレーシア航空とシンガポール航空に分離し、運行を開始する。
1990年・・・ マレーシアにおける航空旅客総数が1980年の720万人から2.5倍の1,815万人に増える。
1998年・・・ スバン国際空港にかわるクアラルンプール国際空港(KLIA)がセランゴーン州セパンに開港する。
2002年・・・ 国内線の全てがクアラルンプール国際空港(KLIA)に移管される。
2020年・・・ 当初年間2,500万人が利用できる施設として開港されたKLIAを2020年までに6,000万人が利用できる施設に拡張する計画がある。

クアラルンプール国大変安く際空港(KLIA)

搭乗口まではトレインで移動する(KLIA)

<港湾>
 かつて東西の中継貿易港として栄えたペナンは、その地位をシンガポールにとってかわられた。バタワース、ポートクラン、ジョホール新港の三港の整備を進めている。マレーシアでは地理的に海運の果たす役割が大きく、輸送の90%以上を海運輸送に頼っている。




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 マレーシアにはたくさんの種類の動物がいます。その中のつくつかを紹介します。

マレードラ(Malayan Tiger)
 体長約2mの大型肉食動物でネコ科に属する。マレーシア、ジャワ、スマトラ島が発祥の地で、アジア各地、中国北部、シベリア、西部イランまで広がっていった。

マレードラ(Malayan Tiger)

マレーグマ(Malayan SunBear)
 大型肉食動物で、クマの種類の中では比較的小さく、体長1.5mほどである。インド東部が発祥の地でマレーシアに来たものと考えられる。普段は果実、野菜、シロアリ、はちみつを食べる。するどい爪を持ち、ときおり小動物に襲いかかることもある。

マレーグマ(Malayan SunBear)

モグラ(Short-Tailed Mole)
 1937年にマレーシアのキャメロンハイランドの茶園で初めて見つけられた珍しい小形肉食動物である。

マレーバグ(Malayan Tapir)
 体色が白と黒で、腹の周りが白色の草食動物で、「夢を食う動物」と言われている。夜行性で、昼間は眠っていて、暗くなってからエサである水草、果実、葉を探して長く伸びた口先で器用に食べる。

マレーバク(Malayan Tapir)

マレーヒヨケザル(Malayan Colugo)
 外形はムササビに似ていて、口先が長く、夜行性で、夜になると木から木へと滑空して果実、芽、花、樹葉などを食べる。特にココナツヤシを好んで食べ、ヤシ園に害を与えることがしばしばである。

マレーヒヨケザル(Malayan Colugo)

スローロリス(Slow Loris)
 「道化ザル・ノロマザル」とも呼ばれ、夜行性で樹上に住み、地上へ降りることは全くない。動作は極めてゆっくりで、一歩一歩が慎重この上ない歩き方をし、昆虫、果実、木の葉などを食べる。

スローロリス(Slow Loris)

カンチル(Mouse-Deer)
 体長40〜50cm、体重2kg程の小さな動物で、顔はねずみによく似ていて、首から下は鹿をミニチア版にした体形である。特にそのひづめは世界一小さく、しっぽも非常に短い。夜行性で、木の新芽や新葉、草を好み、中でも落ちた果実が好物である。体は小さいが、賢さと素早さでトラやワニから身を守る。民話にしばしば登場し、国立動物園のシンボルマークになっている。

カンチル(Mouse-Deer)

 半島マレーシアでは全体の60%、東マレーシアでは全体の70%が熱帯雨林のジャングルである。熱帯のマレーシアでは、きれいな花を一年中楽しむことができ、温帯の日本では見たことのないような珍しい色鮮やかな花や奇妙な形の樹木を見ることができる。ジャングルの中には、常緑広葉樹や、木性シダ類、ソテツ、パームヤシで代表される裸子植物の仲間の大きな木が多く見られる。ヤシ科のトックリヤシは街や住宅地でもよく見られる。マレーシア原産の植物は少ない。

トックリヤシ




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 マレーシアで育つ果物の種類は野生種を含めると130種以上で、そのうちの約3分の1近くはマレーシア原産です。また、マレーシアの果物の多くはたくさんのビタミンCを含んでいます。
 マレーシア原産の果物  ドリアン、マンゴスチン、ランブータン、バナナ、ポメロ、ランバイ、チェルマイ、ブリンビンアッサム、マンゴーなど。
 マレーシアに移入された果物  パパイヤ、パイナップル、グァバ、チク、ドリアンブランダ、インディアンマンゴー、ウォーターアップル、ジャックフルーツ、ザクロ、スイカなど。
 1年中食べられる果物  パパイヤ、バナナ、パイナップル、グァバ、チク、スイカ、レモン、ミカンなど。
 1年に2回だけの果物  ドリアン、ランブータン、プーラーサン、マンゴスチン、デュク、ランサット、ランバイ、ジャックフルーツ、チュンプダックなど。シーズンは、6〜9月と12〜2月の年2回。前者の方が後者に比べ、量、種類とも多い。

 以下で、マレーシアの代表的な果物を紹介します。

ドリアン(Durian)
 マレーシア原産のキワタ科の常緑高木で、高さ40mにもなる。「果物の王様」と呼ばれ、「天国の味、地獄の臭い」と言われる。子供の頭ほどの大きさで、その表面は1〜3cmの先のとがった荒いトゲで覆われている。実の中は4〜5室に分かれ、5×2cmほどのクリーム色、黄色をした果肉に包まれた種子が数個入っている。果肉は少し粘り気があって柔らかく、強い香りと甘みがあり、栄養価に富んでいる。

ドリアン(Durian)
マンゴスチン(Mangosteen)
 マレーシア原産のオトギリソウ科の常緑の高木で、実がなるまでに15年もかかり、最も成長の遅い木の一つである。「果物の女王」と呼ばれている。無性生殖でできる実は赤紫色の小さなカキのような形で、果実の先には5〜8枚の木質化したへたがついている。その数は中の白い実の数と一致する。厚く固い皮を開くと真っ白な果肉が現れ、水気の多い酸味のある甘い味がする。

マンゴスチン(Mangosteen)

マンゴー(Mango)
 東南アジア原産のウルシ科で「果物のプリンセス」と呼ばれ、庭木としてたいていの家には植えられている。果実の色、形、大きさは変化に富み、花や実の時期は一定でなく、味も気候や土質に大きく左右される。熟すと表面は緑、黄、オレンジに変わり、果肉は水気が多く甘酸っぱい味で少し臭気がある。果肉の中心に繊維質に包まれた固くて大きな種子が1個ある。「インディアン」、「アップル」、「ココナッツ」、「パパイヤ」、「タイ」、「フィリピン」などの豊富な種類がある。

マンゴー(Mango)

ランブータン(Rambutan)
 マレーシア原産で、名前はマレー語の「Rambut(髪の毛)」に由来する。果実の表面は赤や黄の柔らかい毛のような突起で覆われている。果皮は薄く、つるりとむけ、甘くて水気の多い白色半透明の果実を包んでいる。マレーシアの果実の中では最も親しまれよく食べられている。年2回のシーズンにはクリのいがのような実が枝からたわわに実っている。

ランブータン(Rambutan)

スターフルーツ(Starfruit)
 東南アジア原産のタカバミ科で、果実を輪切りにすると星型をしていることから「スターフルーツ」と名付けられた。花や実は1年中見られ、表面はなめらかでロウのような光沢がある。果肉には水分が多いが、あまり甘みがない。

スターフルーツ(Starfruit)

パパイヤ(Papaya)
 南アメリカ原産のパパイヤ科で、熱帯地方で広く栽培されている。中心が空洞の直立した1本の幹をもつ。成長が早く、半年から1年で実がなる。果実は形、大きさ、味ともに変化に富んでいる。果皮は薄く滑らかで、果肉は液汁が多く美味で栄養豊富である。

パパイヤ(Papaya)

ジャックフルーツ(Jackfruit)
 インド原産のクワ科で、果物の中では最も大きく、長さ30〜90cm、幅25〜50cm、重さ20kgにもなる。果皮は黄色っぽく、鋭さのない短くて厚いとげで覆われている。果実の中に5〜6cmの小さな果肉がぎっしり並び、強烈な甘いにおいにふさわしいとても甘い果物である。「ナンカ」、「チュンプダック」の2種類がある。

ジャックフルーツ(Jackfruit)

パイナップル(Pineapple)
 南アメリカ原産のパイナップル科で、現在では、マレーシア、セレベス、西インド諸島、ハワイ、フロリダ、台湾などで広く栽培されている。高さ数十cmの短い幹の上に剣状の葉をつける。葉は固く多肉質で、両側にとげ状の突起がある。花はたくさん集まって松かさ状につく。花が咲いた後、松かさ状の部分が大きくなり実になる。果肉は水分が多く、とても甘い。

パイナップル(Pineapple)

ドラゴンフルーツ(Dragonfruit)
 中米原産のサボテン科で、欧米ではビタヤと呼ばれている。夜中に月下美人のような花を咲かせ、果実は直径15cm程になる。台風や害虫に強く、癖がなくさっぱりとした甘さをもつ。

ドラゴンフルーツ(Dragonfruit)




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 長期にわたるイギリスの植民地支配のもとでマレーシアを代表する産業となった「すず」と「天然ゴム」の生産額は減少しつつあります。それに代わって、近年パーム油と原油の輸出額が伸びています。
 また、日本及び諸外国のマレーシアへの進出によって、機械工業や重化学工業も成長を遂げ、とりわけ機械工業は輸出品目の第一位にランクされるようになりました。さらに、最近では、情報産業の育成にも力を入れています。

1.農林水産業
@天然ゴム
 マレーシアの全耕地面積の3割はゴム園である。半島マレーシアの西海岸にゴム園が集中している。1990年代に、栽培地面積のトップの座はゴムからパームやしに代わった。

ゴムの木に切れ目を入れて樹液を採集する

天然ゴムの栽培面積と生産量
栽培面積(千ha) 生産量(千トン)
1985 1956 1472
1990 1837 1291
1993 1763 1074
1995 1679 1089
1999 1464 859
2001 1265 801
<マレーシア農業年間より>

Aパーム油
 パーム油は政府の貿易政策により、1970年代の半ばから天然ゴムに次ぐマレーシアの重要輸出品目に急成長した。ゴム園経営に比べて労働力が少なくて済むという利点から、エステート(大農園)ではゴム園からパーム園への転換が行われた。パーム油は植物油であり、需要の高い食品工業の原料である。大豆と並ぶ最も強力な食料一次産品である。

パームヤシ(パーム油が採れる)

B米
 マレーシアの主食は米である。稲作は零細規模で、長い間、新しい技術の導入がされず放置されてきた。近年、灌漑施設の整備や二期作の導入を進めてきている。米の自給率は70%以下で、タイ、パキスタン等から輸入している。

C木材
 マレーシアは南洋材の豊富な供給地で、「丸太・製材」の輸出が行われている。丸太輸出のほとんどは東マレーシアからで、大半は日本向けである。一方、半島マレーシアからの丸太輸出のうち、ラワン等16樹種が禁止されている。そのため半島マレーシアでは木材加工業が発達し、木工製品の輸出が盛んに行われている。

D水産業
 沿岸漁業中心から、近年は漁船・漁具の大型化、近代化を進め、沖合漁業中心へと変わりつつある。それに伴い漁獲高が増加している。また、貝類やエビの養殖が広く行われるようになってきている。

Eその他
■こしょう ・・・ マレーシアは、世界第4位のこしょうの生産国で、1999年には世界の生産量の17%を生産した。マレーシアのこしょうの大部分はサラワク州、ジョホール州で生産されている。

■ココナッツ ・・・ マレーシアにおいては、ゴムやパーム油よりもココナッツの栽培の歴史は古く、スモールホルダー(小農園)を中心に栽培が行われてきた。しかし、作付け面積は徐々に減少して、1999年には28万haほどになった。

■ココア ・・・ ココアは、パーム油、天然ゴムに次いで重要な農産品の一つである。1970年代の後半にサバ州に初めて導入された。現在でもサバ州において盛んに栽培され、全国の栽培面積の半分を占めている。1999年の生産量は9万2千トンであった。

■その他 ・・・ コーヒー、パイナップル、カカオ、茶、香辛料、タピオカ、野菜、タバコ、サトウキビなどの作物が栽培されている。果物はジョホール州を中心に栽培され、ドリアン、バナナ、グアバ、スターフルーツなどが輸出されている。

2.工業
@電気産業
 輸出用テレビ、ビデオ、エアコンなどの生産、半導体産業、電子部品産業が電気産業の3本柱である。海外企業のマレーシア進出もあって、電気産業全体の生産額は毎年成長を続けている。

マレーシアに進出している日系企業

A自動車工業
 国産車プロトンサガに続いて、続々と国産車が生産、販売されるようになった。マレーシアでは、自動車やオートバイなどの部品産業にも力を入れており、現在ではほとんどの部品が現地調達できるようになった。

3.鉱業・エネルギー産業
@すず
 すず鉱山はセランゴール州とペラ州に集中していて、この二つの州で全産出量の90%を占めている。すずの産出量は1960年代始めから低下し、生産量第一位の座をブラジルに明け渡した。ブラジル、中国等のすずの放出により、過剰にすずが供給され価格が下がり、マレーシアの零細鉱業者は大きな打撃を受けている。

すず製品の専門店にて(ミッドバレーメガモール内)

A石油と液化天然ガス(L.N.G.)
 産油地域は半島マレーシアの東海岸と東マレーシアである。マレーシアの石油採掘は新しく、1970年代にたくさんの油田が発見され、1980年代には日産30万バーレル、1990年には62万バーレルと生産量が大きく伸びた。輸出も盛んに行われ、輸出品の第2位を占めている。
 東マレーシアのサラワク州では、天然ガスを利用して液化天然ガス(L.N.G.)を開発し、1983年からは日本への輸出が始まった。54兆立法フィートもの天然ガスの埋蔵量が確認されている。

マレーシアの原油生産量(単位:千バーレル/日)
原油生産量
1982 295
1984 440
1986 540
1988 545
1990 625
1995 685
1999 727
2001 768




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 マレーシアの子供たちは、1〜2年間幼稚園に通います。日本の義務教育に準じる国民の教育は、小学校の6年間と中学校の3年間です。この国民の教育は日本の義務教育とは異なり、子女を就学させる親の義務は法的には定められていません。小学校教育は6才から始められます。
 この国民の教育は、全てのマレーシアの子供たちに無償で行われています。しかし、図書館使用料金、文房具一式代金、スポーツ用具代金を年に一度、それぞれの児童生徒が支払うことになっています。
 マレーシアの国民の教育は、大きく次の4つの基本方針を掲げて実施されています。

一. 愛国心の育成
二. 宗教心の育成
三. 他民族への理解を深く互いに協調する心の育成
四. 文化や伝統の尊重

 特に、マレーシアはマレー系、中国系、インド系などの他民族からなる国家なので、第三番目の「他民族への理解を深く互いに協調する心の育成」は最も重要な国家的教育課題です。
 教育行政の方針として、それぞれの民族の言語や文化を優先的に教育できる教育機関の設立を認めています。マレーシア政府の設立する国民学校の他に、中国系、インド系などの準国民学校が設立されています。

◇ マレー語だけで教育する国民学校(小学校) ・・・ 72%
◇ タミール語を中心に英語・マレー語を使う国民学校(小学校) ・・・ 10%
◇ 中国語・英語・マレー語を使う国民学校(小学校) ・・・ 18%

 このように、これらの教育機関では、それぞれの民族の言語で教育できるとともに、国語であるマレー語の履修も義務づけられています。
 1969年に英語教育からマレー語教育にかえられたマレーシアの学校教育は、2003年から全ての小中学校の一年生から算数・数学、理科を英語で教育するようになりました。

1.小学校教育
 小学校教育は1年生から6年生までの就学です。午前と午後の2部制で授業をする学校もあります。
 小学校で学習する教科は、マレー語、英語、算数、図画工作、道徳、アラムダンマヌシア(マレーシアの生き物などについて学ぶ教科)、Agama(モスレムのための宗教教育)などです。モスレム以外の児童はAgamaを履修しませんが、その代わりとして道徳教育の履修が義務づけられています。
 これらの教科の学習の他に、小学生は2週間に一度必ずクラブミーティングに参加することが義務づけられています。クラブの種類は、学校によってまちまちですが、英語クラブ、マレー語クラブ、コンピュータクラブ、バドミントンクラブ、水泳クラブ、卓球クラブ、サッカークラブ、図工クラブ、理科クラブ、算数クラブ等があります。
 なお、これらのクラブミーティングの他に、週一度のスポーツ練習が義務づけられています。1単位時間は30分で、日本より15分短くなっています。

小学校5年生の時間割の一例
曜日 07:35-08:05 08:05-08:35 08:35-09:05 09:05-09:35 09:35-10:05 10:05-10:25 10:25-10:55 10:55-11:25 11:25-11:55 11:55-12:25 12:25-13:05
全校朝会 算数 道徳・宗教 マレー語 マレー語 休み時間 英語 音楽 自然・人類 自然・人類 算数
体育 自然・人類 道徳・宗教 道徳・宗教 英語 休み時間 英語 算数 マレー語 マレー語 算数
課外活動 課外活動 英語 道徳・宗教 英語 休み時間 英語 算数 マレー語 マレー語 算数
英語 英語 自然・人類 道徳・宗教 自然・人類 休み時間 マレー語 マレー語 算数 図工 図工
マレー語 マレー語 体育 道徳・宗教 英語 休み時間 算数 自然・人類 自然・人類    

 小学校6年生のとき、全ての児童はUPSR(小学試験)と言われている政府の統一テストを受けなければなりません。このテストでは、6年生一人ひとりの学力がチェックされます。 マレー語、英語、そして算数の学力がチェックされますが、このテストは進学の可否を目的としたものではないので、その後、自動的にフォーム1へ進級できます。日本では、新学期は4月からですが、マレーシアでは1月2日に始まり、修了は11月30日となっています。
 第1学期は1月から5月まで、第2学期は6月半ばから11月までの2学期制をとっています。3月には約2週間の休み、6月には3週間の休み、12月には1ヶ月の年度末長期休暇があります。

2.中学校教育
 中学校教育では、午前授業と午後授業の2部制を採用している学校が普通です。午前授業は、午前7時25分から午後1時10分まで行われています。この日程は月曜日から木曜日のもので、金曜日は特別な日程で授業が行われています。
 金曜日の午後の授業は、2時20分から始まり6時40分までとなっています。これは、金曜日にモスクへ行って拝礼するモスレムが多く、拝礼の時間帯を避けているためです。
 全寮制の中高一貫教育校であるレディデンシャルスクールも、全国に約30校あります。
 フォーム1、2、3の中学校では、マレー語、英語、地理、歴史、技術家庭、道徳、Agamaイスラーム(モスレムの生徒のための宗教教育)、科学、数学、保険、体育、美術等を学習しています。
 1日に8単位時間か9単位時間の学習が組み込まれていますが、1単位時間は40分か45分です。
 フォーム3の生徒は、PMR(中学試験)といわれている政府による統一テストを受けることを義務づけられています。このPMRは、毎年9〜10月に全国一斉に実施されます。
 また、中学生全員が特別活動に参加しなければなりません。クラブと委員会は2週間に1度行われ、スポーツの練習は毎週1回義務づけられています。
 運動会は毎年2月か3月頃実施する中学校が多いようです。

中学校の年間行事の一例
行 事 ・ 長 期 休 暇
1月 新学期始業(2日)
2月 2週間の長期休業
3月 期末テスト
5月 全校チーム別対抗ゲーム、学校対抗クイズ大会、歴史テスト、コンピュータフォーラム
6月 コンピュータフォーラム、3週間の長期休業、思春期フォーラム、学校対抗芸術コンクール、期末テスト
7月 学校対抗歴史クイズ大会、学校対抗演劇コンクール、公開授業日・保護者会、校内弁論大会
10月 学校対抗芸術コンクール、自然保護デーコンペティション、学年末テスト、PMR政府統一テスト
11月 学年修了日(22日)
12月 1ヶ月の長期休業


3.高等学校教育
 フォーム4,5の高等学校では文化系コースと理工系コースに分かれます。
 文化系コースの生徒は、マレー語、英語、歴史、地理、技術家庭、英文学、美術、道徳、数学、科学を履修します。
 理工系コースの生徒は、英語、マレー語、歴史、道徳、数学、上級数学、物理、生物、科学、会計学を履修します。
 フォーム5の生徒は、学年末の10月初旬に政府のSPMテストをうけることになっています。
 このテストて成績の優秀な生徒にはフォーム6への進学が約束されます。フォーム5を修了した時点で、多くの生徒は外国の大学等に進学したりするため、進路に合わせた資格取得のために、私立のカレッジ(大学予備課程)へ進みます。外国への留学では、イギリスをはじめ、アメリカ合衆国やオーストラリアが多くを占めています。
 1981年マハティール前首相が、これからの国づくりにおいて、日本の国民の労働倫理や勤労意欲、経営能力、国民性としての道徳の高さ、教育や学習意欲をマレーシアにも取り入れたいと、ルックイースト政策を発表し、日本への留学を後押ししています。1999年度には、累計で5,700人以上の人が日本に留学しています。

 
東方政策受け入れ実績(渡日ベース)
学部留学生 高専留学生 日本語教員 産業技術研修 経営幹部実務 政府幹部職員 合計
1982       135 11   146
1983       418   427
1984 39 24   248 10   321
1985 45 28   236 16   325
1986 64 30   229 17   340
1987 79 30   221 14   344
1988 81 30   202   322
1989 84 30   176   297
1990 83 29 10 152   282
1991 90 30 10 119   254
1992 104 45 12 146   312
1993 113 58 15 119 10 13 328
1994 136 72 20 107 30 14 379
1995 123 69 17 78 28   315
1996 128 71 11 80 35   325
1997 145 81 10 60 42 14 352
1998 147 93 69 20   335
1999 141 83 47 42   313
合計 1,602 803 111 2,842 318 41 5,717

4.大学教育
 2003年現在、マレーシアには、国立大学9校および国際イスラム大学1校の計10校が設置されています。また、私立大学は9校あります。
 学生総数は222,704人で、同世代人数の約11%に相当します。

国立大学
大学名 省略名 設立年 学生数(2000年) 所在地
@ マラヤ大学 UM 1962 21,635 クアラルンプール
A 国民大学 UKM 1970 24,938 セランゴール
B プトラ大学 UPM 1971 30,732 セランゴール
C マレーシア工科大学 UTM 1972 26,977 ジョホール
D 北部大学 UUM 1984 13,940 ケダ
E 国際イスラム大学 UIAM 1983 13,263 セランゴール
F マラ工科大学 UiTM 1956 62,216 セランゴール
G 理科大学 USM 1969 20,459 ペナン
H サラワクマレーシア大学 UNIMAS 1992 2,558 サラワク
I サバマレーシア大学 UMS 1994 4,154 サバ

大学名 学 部 ( 学 科 )
@ マラヤ大学 人文、社会科学、経済、行政、法学、教育学、歯学、医学、イスラム法学、イスラム神学、歴史学、民俗学
A 国民大学 化学、教育学、電気・電子工学、住宅・建築学、人文、材料・資源、数学・情報、医学、薬学、物理学、社会学
B プトラ大学 農学、教育学、工学、水産・海洋学、食品化学、林学環境化学、獣医・畜産学(トレンガヌに経済学部)
C マレーシア工科大学 電気工学、機械工学、土木工学、建築学、測量学
D 北部大学 経済学、会計学、経済行政学
E 国際イスラム大学 経済学、法学
F マラ工科大学 教育学、理化学、科学、電子工学、建築学、物理学工学、情報工学、機械学、経営工学、電子工学、土木学、森林科学
G 理科大学 生物学、化学、教育学、電気・電子工学、人文科学住宅・建築学、地理学、材料・資源、医学、薬学、数学・コンピュータ、物理学、社会科学
H サラワクマレーシア大学 電気・電子学、社会科学、国際情報、芸術学、農学、コンピュータ工学、言語学
I サバマレーシア大学 言語学、教育学、薬学、教育学、図書館学

私立大学
大学名 省略名 設立年 所在地
(1) 国際歯科大学 I.M.U. 1993 クアラルンプール
(2) テナガ・ナショナル電気科大学 U.N.I.T.E.N 1997 セランゴール
(3) ペトロナス科学技術大学 U.T.P. 1997 ペラック
(4) マルチメディア大学 M.M.U. 1997 サイバージャヤ
(5) トゥン・アブドゥル・ラザック大学 U.N.I.T.A.R. 1998 セランゴール
(6) マレーシア・モナシュ大学 M.U.M. 1998 セランゴール
(7) カーティン科学技術大学 C.U.T. 1998 サラワク
(8) マレーシア・ノッティンハム大学 U.N.I.M. 2000 クアラルンプール
(9) リムコックウィングITデザイン大学 L.U.C.C.T. 2003 サイバージャヤ




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 マレーシアの独立後、日本はマレーシアの開発プロジェクトに対する援助資金ばかりでなく、「ルック・イースト政策」による研修生の受け入れと、「青年招へい計画」によるマレーシア人の受け入れを含む技術協力を行ってきました。1982年から始まった「ルック・イースト政策」で日本に留学・研修に派遣された学生や職業人は2002年までで約6,600人に達し、マレーシアに帰国後は政府機関や企業のリーダーとして各方面で活躍しています。

コンドミニアム入り口のガードハウス(セキュリティーチェックをしている)

コンドミニアム(高層マンション)

リンクハウス

 1987年以降、外国からの投資を盛んに誘致するマレーシアの政策に応えて、日本からの投資は大幅に増えました。
 1967年当時は、クアラルンプールに在留する日本人は100人もいませんでした。コンドミニアムもなく、リンクハウスに住んでいました。日本食のレストランもなく、シャー・アラムの辺り一帯は広大なゴムのプランテーションの樹林で覆われていました。 それが、現在では日本食レストランが数多く営業し、コンドミニアムがあちこちに林立し、シャー・アラム一帯は一大工業地帯に変身しています。日系企業の多くは、この辺りに進出して盛んに生産活動を行っています。
 2002年、マレーシアに進出している日系企業数は1,368社、在留邦人の数は11,237人と、日本とマレーシアの親密さを物語っています。

マレーシアにおける日系企業数と在留邦人数
西 暦 日系企業数(社) 在留邦人数(人)
1986 477 4,096
1992 846 7,193
1993 960 8,196
1994 1,014 9,223
1995 1,070 10,366
1996 1,346 11,144
1997 1,378 11,485
1998 1,433 11,726
1999 1,428 11,545
2000 1,420 11,625
2001 1,413 11,653
2002 1,368 11,237
2003 1,337  

 1966年、マレーシアが第一次5ヶ年経済計画を発表して以来、日本とマレーシアの関係はより親密になりました。このマレーシアの経済計画に対して、日本政府は第一次計画から資金の援助をしています。第四次計画(1981〜1985年)では、年間210億円を供与しています。
 それだけでなく、新日鉄による一貫製鉄所、石川島播磨重工業によるセメント工場建設・アルミ精錬・冷延鋼板、三菱自動車工業による国産車「プロトン」の製造など、重化学工業の育成にも力を貸しています。
 1981年、第四代首相になったマハティール首相は、第四次マレーシア計画を実行に移すため、BCA(清潔・効率・信用)運動を実施しました。また、タイムカードの導入や名札の着用などの労働規律の改善を図りました。
 また一方では、日本と韓国の勤労倫理及び技術を学び、実践することを目指した「ルック・イースト政策」を発表し、青年技術者や留学生を日本へ送り、積極的に日本での研修を進めました。この政策に対しても、日本は留学、研修先の提供や研究費を受け持つなど積極的に協力しています。
 第五次マレーシア計画では1987年以降、外国からの投資を盛んに誘致する政策をとりました。これに応えて、日本からの投資も大幅に増えました。
 1991年には、「貧困の撲滅」と「社会の再構築」という2つの目標をかかげ、第6次マレーシア計画(1991〜1995年)がスタートしました。
 このようにして、現在マレーシアは第一次産品(ゴム・すず・製材・原木・パーム油・石油など)輸出国から近代工業国へと変身しています。
 そして最近では、先進的な情報技術社会を目指して、マルチメディア・スーパー回廊(MSC)の中心となる情報都市サイバージャヤの建設に力を入れています。そして、数多くの日系企業がハードやソフトの分野に参加しています。

日本とマレーシアの貿易(1981年)
マレーシアへの輸出品
@ 機械類 39.4
A 自動車 17.0
B 鉄鋼 15.1
C 金属製品 4.7
D 二輪自動車 2.7
E プラスチック 2.0
F 紙類 1.6
G 船舶 1.4
H 合成繊維織物 1.3
I 精密機械 1.1
J その他 13.7
合計取引額 2,424百万ドル

日本とマレーシアの貿易(2000年)
マレーシアへの輸出品
@ 機械類 60.6
  機械類のうち集積回路 (20.2)
  機械類のうち電気回路用品 (4.0)
A 鉄鋼 5.3
B 乗用自動車 3.2
C 精密機械 3.0
D プラスチック 2.9
E 自動車部品 2.7
F 金属製品 1.9
G 銅 1.4
H 金(非貨幣用) 1.3
I その他 17.7
合計取引額 12,471百万ドル

日本とマレーシアの貿易(1981年)
マレーシアからの輸入品
@ 原油 38.1
A 木材 34.1
B すず地金 8.9
C 天然ゴム 3.3
D 銅鉱 2.5
E パーム油 2.5
F 機械類 2.4
G エビ 1.3
H ウッド・チップ 0.6
I ボーキサイト 0.6
J その他 5.7
合計取引額 2,927百万ドル

日本とマレーシアの貿易(2000年)
マレーシアからの輸入品
@ 機械類 50.2
  機械類のうちコンピュータ (15.5)
  機械類のうち集積回路 (12.8)
  機械類のうちカラーテレビ (4.9)
A 液化天然ガス 17.3
B 合板 4.4
C 木材 4.1
D 石油製品 2.3
E 原油 2.0
F 精密機械 1.9
G 家具 1.8
H その他 16.0
合計取引額 13,022百万ドル

 下の表からも分かるように、マレーシアにとって日本は最大の貿易相手国の1つであり、日本にとってもマレーシアは大切な国の一つです。
 マレーシアの貿易相手国として日本が占める割合は年々増えてきており、独立後の日本とマレーシアの関係は経済活動を中心に大変親密になってきていると言えます。

マレーシアの輸出相手国(2000年)
国名 輸出割合(%)
@ アメリカ 20.5
A シンガポール 18.4
B 日本 13.0
C オランダ 4.5

マレーシアの輸入相手国(2000年)
国名 輸出割合(%)
@ 日本 21.1
A アメリカ 16.6
B シンガポール 14.3
C 韓国 5.6




参考文献: 「マレーシア政府派遣学部留学生 予備教育 ガイドブック」

参考文献: 「資料集 MALAYSIA 2004 クアラルンプール日本人学校」




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