明智城(白鷹城)は標高530mにあり、宝治元年(1247年)に明智遠山氏の始祖・遠山景重(加藤次景廉の長男・初代岩村城主遠山景朝の次男)の築城とされ、遠山氏累代の居城であった。天険の地形を巧みに利用した山城で、土盛り砦として堡塁数大小23ケ所あり、落城後、原型のまま残されているのは日本でも数少ないとされ、岐阜県の指定文化財となっている。重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実践に備えて館5棟があった。
 明智城の落城は、天正2年(1574年)3月12日。武田勝頼は、父信玄の遺図を果たそうと、一万五千の大軍をもって明智城に襲いかかった。城主遠山一行、叔父利景らは兵六百でこれを死守し、急を織田信長に報じた。信長は明智城を失うことによって、美濃、尾張、三河、遠江、駿河の覇権を一挙に粉砕されるおそれがあると、子信忠、そして明智光秀を奈良多聞城から呼び寄せ、援兵三万をもって自ら西八丁の鶴岡山に布陣した。勝頼は甲州軍の誇る騎馬軍団の将・山形三郎兵衛昌景に命じて、六千の兵で信長の進路を断った。信長は山岳戦の不利を知って、光秀をなだめ決戦を避けて後退した。先の上村の合戦で大方の精鋭を失い、今、援軍に見放された城中では、すでに矢尽き刀折れ、材木、岩石などを落として孤軍奮斗したが、城下は火の海となり、敵の兵馬はひしめき、風林火山の旗と、鬨の声は城外に満ち満ちていた。やがて搦め手水の口曲輪が破られ、城郭にも火をかけられ、あえなく討死する者も五百を数えた。そこで、城主一行、利景らは、再起をはかり、夜陰に乗じて足助城へ逃れ、徳川家康の庇護下に入った。凄惨な明智城の落城であっ た。

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土盛り砦 明智城本丸跡

写真集1(明智城跡)
写真集2(明智城跡)

 落城後勝頼は本丸に立ち、かつて父信玄が一生のうちでただ一度苦杯を喫した戸石城(信州上田市)に似た、峻険な断崖を巧みに利用した多くの土塁や空堀に驚き、この難攻不落の城を落城させたことに強い自信をもったという。それが翌年の運命を決する長篠の戦いへと駆り立てていった。 (明智城址本丸跡にある説明より)

 加藤次景廉(源頼朝の重臣)遠山景朝(初代岩村城主)遠山景重(景朝の次男・初代明智城主)→景長→朝廉→景忠→景房→頼景→景基→景次→景勝→景保→景成→景行→景玄→一行 (明智遠山系譜より)


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