ほうきょういんとう と ごりんとう



 福岡町立福岡小学校の校歌は「空明るし城ケ根に夢結ぶ・・・」で始まり、2番に「二つ森・・・」、3番に「付知川・・・」と続く。今もし、福岡を象徴する代表的なもの挙げるとしたら「二つ森」または「付知川」と多くの人が答え、「城ケ根」と答える人はおそらくいないであろう。
 今から約700年前の鎌時代から室町時代にかけてのおよそ200年間、植苗木城ケ根山の山麓には広恵寺城があった。広恵寺城城主館武家屋敷広恵寺があり、植苗木は中世の福岡の中心地域であった。
 現在、城ケ根山の山麓には、観音堂、石積み、礎石、古井戸、庭池、土塁や堀の跡の他に、下の写真の宝匡印塔五輪塔が残っている。
 まさに城ケ根は、植苗木に夢の城下町を形成していた。
 広恵寺城広恵寺は別々のものではなく一体化していたことは、広恵寺城を築いたとされる城主・遠山一雲入道景利や広恵寺城を苗木高森に移したとされる城主・遠山一雲入道昌利の名からも伺われる。
 広恵寺城があった「城ケ根山」は、広恵寺城のお寺の鐘が鳴る山の意味で「城鐘山(じょうがねさん)」であったとは考えられないだろうか。
 現在、観音堂の裏には写真の宝匡印塔と五輪塔とは別に、宝匡印塔の一部が広恵寺に使用されていたとみられる多くの石とともに石ころとなって放置されている。
 下の写真は明治初期の苗木藩の廃仏毀釈の難を逃れた広恵寺城主一族・家臣または広恵寺住職の墓であり、広恵寺周辺には他にも宝匡印塔と五輪塔が存在していたにちがいない。

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 下の左の写真は、静岡県修善寺町牧ノ郷にある源頼朝の重臣・加藤次景廉の墓である。加藤次景廉は恵那山麓一帯の遠山荘地頭に任ぜられ、長男・景朝は初代岩村城主となり遠山姓を名乗った。遠山景朝の二男・景重は初代明智城主となり、三男・景員が二代目岩村城主となった。しかし、遠山景朝の長男・景村の動向については全くわからないのである。「苗木伝記」によると景村より数代にわたって遠山氏は植苗木に住んだことになっている。上の写真の中に景村の墓があるかもしれない。
 下の右の写真は、恵那郡明智町にある源頼朝の重臣・加藤太光員(加藤次景廉と兄弟)一族の墓である。

源頼朝重臣加藤次景廉の墓 源頼朝重臣加藤太光員一族の墓

宝匡印塔(左)と五輪塔(右)

 宝匡印塔・・・元来は金銅製でその内部に宝匡印心呪経を収めたことから、その名の由来とされるが、納入物のいかんにかかわらず、この塔形の名称となった。鎌倉中期から石造宝匡印塔となり、墓碑や追善塔に転化し盛行し、一定の形式で形も整い美しくなった。 

 五輪塔・・・経や供養の塔として、あるいは追善のための墓の役割を果たしたものといわれる。室町初期に入ると五輪造立は急増の傾向をみせながら小型化した。なかには一つの石で五輪を形造って簡略化したものもみられるようになった。 


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