植苗木の「城ケ根山(じょうがねさん)」の南面にあたる山麓にはかなりの平坦地がある。今は竹林と木立ちに覆われているが、この所が広恵寺や城主館や武家屋敷の跡で、現在は観音堂の一宇がある。遺構として見るべきものには、寺の礎石、石積み、古井戸、庭池、堀などの跡のほか、周辺には、宝匡印塔や五輪塔が残っている。
木曽古今沿革史には、「城南の平地には今もその跡をとどめる屋敷址あり、城主の住居跡と言い伝え、村中に四方堀の屋敷数カ所あり、いづれも家老屋敷という。」とある。
広恵寺跡周辺は、福岡の高台に位置し、館跡と見られる遺構が残存しており、恐らく、このあたりから片岡寺跡周辺あたりまでは武士館が散在していたものと思われる。
中世の武士の多くは、農村に根をおろして半農半士の生活をしていた。そして、農村の中でも村全体を見下ろせる高台とか、あるいは主要交通の要地や平坦地を選んで屋敷を構えていた。植苗木の城ケ根山麓は、まさにこの条件を満たしていたのである。
また、鎌倉幕府が開かれた三方の山と一方は海で囲まれた天然の要塞である鎌倉と、広恵寺城があった城ケ根山麓の南面の平地との類似性に気づく。規模は、鎌倉とは比較にはならないほど小さいが、広恵寺城があった城ケ根山麓の南面の平地も、三方の山と一方は広恵寺堤によって囲まれているのである。 |