みのげんじ





 美濃源氏は清和天皇の皇孫源経基美濃守に補任されてより、その子満仲から頼光、頼信、頼光の嫡子頼国、その子国房へと相ついで美濃守に任ぜられている。これらの一族の系統が美濃国内各地の土豪を支配下に収め定着したものとみられる。
 美濃源氏主流の一系派に美濃七郎を称した土岐氏があり、天喜5年(1057年)の平安末期に土岐郡に土着し、中濃、東濃一帯における勢力者となった。その子孫は代々美濃国守護を務めるなど、その後の室町幕府を支える一族として繁栄し、東濃の地を本拠とした。また、遠山一族にも大きな影響力を及ぼした。

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明智城址 久々利城址 堂洞城址

写真集(明智城址)
写真集(久々利城址)
写真集(堂洞城址)

 岐阜県可児市に美濃源氏・明智城址がある。
 上の左の写真は康永元年(1342年)から215年間、明智氏の居城のあった所である。それは城といっても天守閣等の派手な建物はなく、周囲に土塁や逆茂木を巡らした中世の典型な山塞であった。
 この城は弘治2年(1556年)斉藤義竜に攻略され城兵諸兵壊滅したが、歴史上有名な明智光秀は一門が再起を期してここから脱出、諸国流浪の後、織田信長に仕えて天賦の才を発揮して、日ならずして近江丹波五十四万石の大守となった。
 しかし、直情怪行武断一辺倒の信長とは本質的に相容れぬものがあり、遂に逆臣の汚名を着て非業の最後を遂げた。郷党の英雄の末路痛恨の極みという外なし。(明智城址にある明智城址保存会、可児市観光協会の説明より)

 上の中央の写真は同じく可児市にある美濃源氏・久々利城址である。「土岐氏・久々利城・土岐桔梗 応永年間(1410年)築城より歴代久々利、土岐三河守悪五郎の居城 天正11年(1583年)森長可により久々利氏断絶廃城」とある。
 久々利城は三河守悪五郎の築城と言われている。遺構は山腹より数段の曲輪を断続的に設け、土塁、空堀などで要所を備えた。室町期の典型的な中世山城で現在もその遺構がよく残されている。
 土岐三河守悪五郎は、三代美濃守護土岐頼康の弟康貞を初代とし、代々土岐三河守悪五郎を襲名、天正11年(1583年)豊臣秀吉と結んだ金山城主森長可により落城するまで数代、200余年続き、三千貫文を領していた。(可児市教育委員会)

 上の右の写真は加茂郡蜂屋町にある美濃源氏・蜂屋城址(堂洞城址)である。
 堂洞城は蜂屋城主の岸佐渡守信周のたてこもった砦である。天下平定を目指して尾張から美濃に攻め込んだ織田信長は永禄8年(1565年)8月、この砦を攻撃して落城させた。
 はじめ信長は勘解由の武勇を惜しんで投降を勧告したが、主君である斉藤氏との義を重んじた勘解由はこれを固く拒んだため戦いとなった。
 信長は8月28日高畑山に本陣を構え、先に通じた加治田城主佐藤紀伊守と共に夕田と蜂屋の両面より堂洞城の攻撃を開始した。勘解由は城兵と共に信長の軍勢を迎え撃ち、辰の刻(午前8時)から申の刻(午後4時)までの8時間に亘って抗戦したが、長男信房は討死し、敵兵また城内に乱入するに及び、城に火を放って妻と共に自害して果てた。(堂洞城本丸跡にある説明より)

 清和天皇→貞純親王→源経基(美濃守)→源満仲→源頼光(美濃守)→源頼国(美濃守)→源国房(美濃守)→源光国→源光信→源光基→土岐光衡(土岐郡在住)→土岐光行→土岐光定→土岐定親→土岐貞経(蜂屋氏) <土岐氏系図より>


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