かなやまじょう





 室町末期、天文6年(1537年)斉藤道三の命を受け、その猶子斉藤大納言正義は可児郡兼山町の山頂(標高273m)に築城、鳥ケ峰城と称し、中井戸の庄の地名を金山村と改めた。豪勇無双近隣に武威をふるった斉藤氏も同17年(1548年)、久々利城主土岐三河守に討たれた。正義時に33才。以後17年間一族の土岐十郎左衛門が留守城を守った。
 時移り、永禄8年(1565年)織田信長は東濃経略の拠点として森三左衛門尉可成を封じ、金山城主7万5千石とした。以来、森可成、長可、忠政、父子三代に亘って36年間居城し、戦国波乱の歴史を彩った。すなわち、可成は元亀元年(1570年)9月20日近江守佐山で、浅井・朝倉軍と戦い討死した(47才)。これより先、長男可隆も4月25日朝倉攻めに初陣、敦賀手筒山城で討死している(19才)。天正10年(1582年)5月9日には甲州武田征伐の途中、信長は金山城に一泊している。同年6月2日未明、明智光秀謀反による本能寺の変信長(49才)とともに討死した可成三男蘭丸長貞(岩村城主5万石、18才)、四男坊丸長隆(17才)、五男力丸長氏(16才)の三兄弟はともに金山城で出生、信長の側近近習として仕えていた。

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金山城跡 金山城本丸跡からの展望

写真集(金山城跡)

 二代城主二男長可はことのほか武勇に優れ「鬼武蔵」と言われた。岩村城主5万石も兼ね信州海津城主でもあった。伊勢長島一向一揆征伐武田征伐等に偉功を立てた。可成寺を創建、城の改築や城下町づくりにも意を用いたが、天正12年(1584年)4月9日長久手の合戦において討死した(17才)。
 三代城主六男忠政は金山城で出生し、長可の跡目を継ぎ15才で7万石を領し豊臣秀吉に仕えた。金山城の整備拡充を手がけたが九州、小田原等に敢戦、知略の将と重んじられた。慶長5年(1600年)徳川家康の命により、信州海津城(13万7千5百石)に移封、金山村及び金山城は犬山城主石川備前守光吉の領有となった。天守、諸櫓等一切を取り壊し木曽川を下して犬山城郭の増築修理に使われたという。忠政は慶長8年(1603年)美作国10万6千5百石に国替えとなり、以後13年をかけて津山城を完成させ現在の岡山県津山市の基をつくった。
 斉藤、森両氏を通し、在城僅か40数年であったが戦国動乱の世に名将として武威発揚もめざましい一方で、城郭整備「六斉市」をはじめとする商業振興などの城下町づくりにも力を尽くした。 (「金山記大成」による 兼山町教育委員会)


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