なえぎじょうあと





 加藤次景廉(源頼朝重臣)→遠山景朝→ ・・・ →遠山景友(岩村城主)→遠山景広→遠山直廉(苗木城主・苗木勘太郎)→遠山友勝→遠山友忠遠山友政(江戸時代苗木藩初代)→秀友→友貞→友春→友由→友将→友央→友明→友清→友随→友福→友寿→友禄→友悌→英彦 (明治に至る)
 濃飛両国通史・遠山氏系譜より

1526年 遠山一雲入道昌利福岡植苗木から高森に移り住む。
1532年 遠山直廉(苗木勘太郎) 苗木城を築き住む。
1560年 遠山直廉 桶狭間の合戦に出陣する。
1565年 遠山直廉の娘(織田信長の養女) 武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぐ。 
1569年 遠山直廉 広恵寺に禁制を下す。
1582年 金山城主森長可 苗木地方を攻める。
1583年 金山城主森長可 再び苗木地方を攻め苗木城落ちる。
      友忠・友政
父子 徳川家康を頼り浜松に走る。
1599年 森氏 信濃川中島に移封される。川尻直次 苗木城主となり、城代・関治兵衛 城を守る。
1600年 遠山友政 徳川家康の命を受け苗木城を攻略奪回し、徳川家康から苗木領を安堵される。

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苗木城(霞ケ城)跡 苗木城(霞ケ城)跡
      
一方は木曽川、三方は厳石峨々たる険阻にして屏風を立てたような堅固の地にある苗木城跡の高森
      
苗木城跡の高森からの展望 苗木城跡の高森の遠景

写真集1(苗木城跡)
写真集2(苗木城跡)
写真集3(苗木城跡)

 豊臣秀吉の家臣の森氏に苗木城を奪われた遠山友政は、「関ケ原の戦い」に際し西軍方の苗木城主の川尻直次と岩村城主の田丸具忠を攻め開城させた。これにより東濃地方は徳川方の勢力下に入った。友政のこの働きが認められ、徳川家康から恵那郡と加茂郡の46カ村、10,521石余りを安堵された。その後、2代秀友、3代友貞は土地開発に力を尽くし、家臣団の編成も進め、苗木領の基礎が確立した。
 苗木藩成立当時の苗木領の石高は10,521石だったが、享保17年(1732年)に、この内の500石を幕府に返上することになり、下野村などが天領になった。一方、新田開発が奨励され、4代友春のころには実際の石高は約15,000石ほどに増加していた。
  苗木領内には46の村があり、これは現在の行政区画では中津川市、恵那市、坂下町、福岡町、蛭川村、八百津町、白川町、東白川村などにまたがっていた。全体の50%以上の村は100石以下の小村だった。(苗木遠山資料館より)


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