つるがじょうあと





 鎌倉時代美濃国守護になった土岐光衡は土岐邑(岐阜県瑞浪市)の一日市場に居館を設け、神箆の地に城を築いて鶴ケ城と称し、四周を整えて美濃国統治の本拠とした。
  その曽孫で室町時代の守護に任ぜられ土岐氏繁栄のもとを築いた頼貞(頼定)もこれに倣い、ここを美濃府城の地とした。
 このほかに、この城は頼貞の第十子で1324年正中変(後醍醐天皇に従い鎌倉幕府倒幕を実行)のとき多治見国長と共に京都で討たれた頼兼の城として有名であり、以降関ケ原合戦まで神箆城または土岐城とも呼ばれて戦史にその名を載せてあり、天正十年、(1582年)2月の織田対武田合戦時には信長・信忠父子もこの城に入城し、ここから武田氏攻略の軍を発信させている。(写真の鶴ケ城本丸跡にある瑞浪市教育委員会の説明より)

 清和天皇→貞純親王→源経基(美濃守)→源満仲→源頼光(美濃守)→源頼国(美濃守)→源国房(美濃守)→源光国→源光信→源光基→土岐光衡(美濃守護・土岐郡在住)→土岐光行→土岐光定→土岐頼貞→土岐頼清(土岐頼遠・土岐頼明) →土岐頼康土岐康行→土岐頼忠→土岐頼益→土岐特益→土岐成瀬→土岐政房→土岐頼純(土岐頼芸)土岐氏滅亡

画像をクリックすると大きくなります...

鶴ケ城本丸跡 鶴ケ城本丸跡からの展望

写真集(鶴ヶ城跡)

一日市場館跡

土岐氏一日市場館跡

 美濃源氏とは平安末期から鎌倉時代にかけて美濃各地に住む土岐氏一族、家臣の総称である。源頼朝に仕え、美濃国守護となった土岐光衡はこの地(神戸城、国府野城、神箆城などと称した。)にあって勢力を伸ばし、子孫は鎌倉幕府とともに栄えた。
 鎌倉幕府の滅亡、建武中興以降、足利尊氏の興隆に伴って、美濃国守護に任ぜられた頼貞光衡の曽孫である。頼貞は後に高田(岐阜県土岐市久尻)に移すまでこの地、一日市場館に居住し室町時代十一代に渡り美濃国守護として権勢を誇った。土岐氏中興の祖である。(土岐氏一日市場館跡にある土岐氏遺跡顕彰会の説明より)


メニューへ戻る