天保・元化(1830〜1847年)のころ、このあたりに地蔵堂があって、村人たちの信仰を集めた場所であったと伝えられる。明治初期の廃仏毀釈によって堂宇は壊され、道の辺の石仏等も石積みにされたり、地中に埋没されて、跡形もなくその姿を消してしまった。時は移り、この付近に疫病が流行ると、誰言うことなく石仏埋蔵の祟りという噂が広がった。そこで、地域の人らが総出で石仏を掘り起こし、この場所に収集安置した。三十三体全部に傷跡があり、当時いかに厳しい廃仏毀釈が行われたかを如実に物語っている。安置の際、諸尊が系統的に配置されなかったことが惜しまれる。
中央の弘法大師の丸彫り座像は、壊すのに忍びず、農家の屋根裏に隠匿されていたため無傷で、後になってここに安置されたと伝えられる。 また、片岡寺から南無阿弥陀佛名号塔を通る直線上に参道があったとのことである。 |
南無阿弥陀佛名号塔と三十三観音 | 廃仏毀釈の傷跡 |