へんこうじあと





 片岡寺(へんこうじ)は、慶安3年(1651年)5月、時の苗木第三藩主の母堂寿昌院殿七回忌のため、苗木雲林寺の一秀和尚によって創建された。家老棚橋八兵衛も、かつて廃寺となった広恵寺の代院として、再興のため尽力した。寺命「崇福山片岡寺」は、福岡の二字を分け山号としたもので、片岡寺は苗木雲林寺末寺のなかで首位とされた。
 片岡寺開山は周岳玄豊和尚によるもので、以後第10世大嶺和尚で仏門の繁栄を見た。しかし、明治3年(1870年)苗木藩廃仏毀釈で廃寺となり、第11世より片岡(かたおか)の姓を名乗るようになった。現在、周岳和尚の祖師像は片岡家で供養されている。
 寺跡周辺には、南無阿弥陀佛名号塔、三十三観音石像、歴代住職の墓碑などがあり、三界萬霊塔の建てられているところが当時の山門の跡であった。庫裡の図面を見ると、間口八間、奥行き十五間の堂々たる建物であったことが分かる。
 また、片岡寺跡の周囲には、中世時代の広恵寺城武士館の面影をとどめた堀や土塁の一部が残存 している。江戸時代に創建された片岡寺に土塁や堀の必要はなかったことからすると、四方堀の中世の武家屋敷の跡に片岡寺が建立されたと考えられる。ちなみに、写真の土塁に隣接した家の屋号は「とのばた(殿畑)」、その向こうの家の屋号は「したとのばた(下殿畑)」であり、片岡寺跡の規模からして、かなり大きな家老屋敷があったものと考えられる。

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片岡寺跡の堀と土塁の跡 三界萬霊塔

 三界萬霊塔の碑には「為当地主加藤次景廉公立之」とある。源頼朝は、治承4年(1180年)に平家打倒の旗揚げをするため、判官平兼隆の屋敷を急襲した。このとき源頼朝の重臣である加藤次景廉は、平兼隆の首を打ち判官屋敷を攻め落とすことができた功績で、文治元年(1185年)恵那山麓一帯の遠山荘を与えられ、その長子景朝岩村城主となって遠山氏を名乗り、遠山一族により植苗木にも広恵寺城が築かれるようになったと伝えられる。


■ 雲林寺跡(うんりんじあと)

雲林寺の礎石

 「遠山家初代久兵衛友政公の寄附にて元和元年友政公大阪出陣留守中棟上げされた。
 天竜山雲林寺と号し妙心派の禅宗寺で遠山家の菩提寺である。寺領十四石余代々和尚の寺格で十七世剛宗和尚の時明治維新の廃仏毀釈のため廃寺となる。」とある。


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