植苗木(うえなえぎ)は、岐阜県恵那郡福岡町福岡区の東端に位置し、集落は役場所在地より一段高い標高390mの丘陵地にある。鎌倉時代の広恵寺城(こうえじじょう)築城の地と伝えられる。人馬の通行のみの時代には、広恵寺堤(こうえじつつみ)の西を通り、小石塚を経て飛騨へと通ずる古道と、坂下を経て木曽へと通ずる古道とがあり、往年は、いずれも主要な道として行き交う人も多く、東西と南北の道が交わる要所であった。
このように、植苗木は歴史上からも極めて興味深い地区で、岩村城主となった遠山景朝が各地に出城を設けて防備に当たっていたが、木曽川北岸の地の固めとして、1333年ごろ、この地に広恵寺城が設けられたと伝えられる。 遠山氏は、土岐氏一族が応仁の乱に巻き込まれ動揺したので、自らの防備のために各地の諸城を固めた。広恵寺城も1532年ごろ、高森(中津川市苗木)が、より有利な地勢として選ばれ、そこへ移された。 |
広恵寺城石碑の除幕式(2010.2.11) | 広恵寺城石碑の除幕式(2010.2.11) |
広恵寺城が築かれた城ケ根山と広恵寺堤 | 城ケ根山頂からの展望 |
また、広恵寺堤の奥の城南の平地には、今は観音堂のみ残されているが、観応元年(1350年)に造営されたという広恵寺や武家屋敷があった。そして、慶安3年(1650年)になって、片岡寺(へんこうじ)が広恵寺の代院として建立され、明治3年(1870年)の廃仏毀釈まで続いた。
広恵寺堤(こうえじつつみ)は、現在、ため池として利用されている。また、先史遺跡であり、広恵寺遺跡と呼ばれ、水が引いて堤の底が現れると、やじりや石錐を拾うことができる。堤の中央には弁天島がある。 |
城ケ根山頂に残る古井戸 | 城南の平地の遠景 |
広恵寺城石碑について「福岡総合事務所だより」に掲載される(2010.2) |
写真集1(広恵寺城跡) |
写真集2(広恵寺城跡) |