こうえじあと





 岩村遠山氏の一族である遠山景利らは、元弘・建武時代(1331〜1334年)、植苗木の城ケ根山に、広恵寺城を築いた。城ケ根は、木曽川西古道筋にあたり、美濃口、木曽路、飛騨口の守りとしての要害の地であった。城南の平地には、武家屋敷があったと伝えられる。今でも植苗木に残る「的場(まとば)」という地名や「とのばた」という屋号からも、広恵寺城が偲ばれる。
   多治見虎渓山の開祖となった夢窓国師は諸国行脚の途中、広恵寺山麓に至った。この地が(中国)の広恵山に似ていたので、霊場として、観応元年(1350年)に弟子の枯木紹栄禅師に開山させ、唐より持参した観音像を祀り、「智源山広恵寺」と称した。江戸時代に至って、後継住職が絶えて自然廃寺となり、観音堂のみ残されたが、それも明治初期の廃仏毀釈で取り壊された。当時の大般若経箱には、応永10年(1403年)と記され、寺歴の古さを物語っている。明治中期、地元の有志により観音堂は旧地に再興されたが、老朽のため昭和60年に改築されている。

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広恵寺跡と竹林 広恵寺跡

広恵寺跡立て札 広恵寺跡立て札

庭池跡案内札 宝匡印塔・五輪塔案内札

旧観音堂 観音堂内

 また、弘化4年(1847年)に写されている福岡村の諸事留書帳であった暦止禄によると、元禄8年(1695年)に第4代苗木藩主遠山和泉守友春の母君、揚源院によって観音堂が再建されたとある。なお、広恵寺の本尊は観音堂に永く安置されてきたが、明治初期の苗木藩の廃仏毀釈の際に付知町の寺に預けられたという。しかし今はその寺も判然としない。現在祀られいてる観世音菩薩の木像は、昭和31年に植苗木弘法講が発起者となり寄進を募って新調されたものである。


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