とびてんのう





 植苗木地区の氏神として、古い伝統のある飛天王であった。神社裏の大きな杉の木にも伝説が伝えられている。明治初年に福岡榊山神社に合祀され、一旦は途絶えていたものを、明治32年に再興され、「植苗木神社」と改称された。

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植苗木神社と州原神社 神社裏の杉

 福岡榊山神社の前社として由緒深く、次のような伝説が残されている。
 元正天皇(680〜748年)の養老年中に、荒田栄久入道が植苗木に住み、常に仏神三宝に帰依していた。ある朝、家の庭に杉苗7本が立ち並んでいたので、家人たちが不思議に思っていたところ、家童がうわごとのように「我は牛頭天王の神木なり。ここにおいて守護神となせば永代に富貴繁昌を守るべし。」と言った。そこで、近くの清浄の地を選んでその杉苗を植え、社殿を創立して飛天王と称し、氏神として尊崇し、荘内もこれを崇敬した。「植苗木」という地名もここから起こるものである。
 遠山氏は代々植苗木を所領し、飛天王を氏神として尊崇していた。元弘・建武(1331〜1334年)の頃、遠山一雲入道が在城のとき、世上は大いに乱れていた。後醍醐天皇の皇子・宗良親王が広恵寺城に身を寄せて潜んでおられると、近国の武士が蜂起して広恵寺城を囲み攻めて来た。味方は小勢で志気を失っていたため、入道は大いに嘆き、社殿に向かって一心に祈った。すると、社殿から二筋の白羽の矢が出て敵の陣中に入り、見る間に忽ち天は墨を流したようにかき曇り、雷鳴と共に車軸を流すような大雨となった。敵兵は浮き足立ってきたと見えたので、「それ天王の加護なり。者共進め。」と下知し、短兵急をきって出たので、敵兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ散った。
 このため、皇子は深く飛天王を崇敬し、「総社祇園牛頭天王」の八字を大書きし扁額を奉られた。その後、広恵寺城の巽に当たって、霊夢により、「一方は木曽川、三方は厳石峨々たる険阻にして屏風を立てたような堅固の地があり、そこに築城せよ。」との御告げがあった。夢が覚めて家人とその方角に行ったところ、果たしてその通りの所があったので、築城移転し、新城を霞ケ城高森と称した。現在の中津川市苗木の苗木城跡である。御坂古道記には「植苗木ノ旧名ニ因テ城下ヲ苗木ト呼フ」とある。続いて、氏神である飛天王を新城に勧請しようとしたところ、今の宮地桧坂まで来たとき、御輿は盤石の如く動かなくなった。役士は奇異に思って「進め。行け。」と供奉の者を打ったり押したりしたが駄目だった。このとき、一人の小童が「吾は牛頭天王なり。高森に行くことあらじ。ここが主神に相応の地である。」と口走った。この神託により、この地は霊場であるとして神殿を造り、榊山神社とした。  現在、榊山神社の例祭の叩き祭りにおいて供奉の者を榊の枝で打つのは、この故事によるものと伝えられる。

「高森に行くことあらじ。ここが主神に相応の地である。」との神託があった霊場の地にある榊山神社 


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