福岡町立福岡小学校の校歌は「空明るし城ケ根に夢結ぶ・・・」で始まり、2番に「二つ森・・・」、3番に「付知川・・・」と続く。今もし、福岡でイメージされる代表的なもの挙げるとしたら「二つ森」または「付知川」と多くの人が答えるであろう。しかし、「城ケ根」と答える人がいったい何人いるであろうか。かつて、植苗木の城ケ根山の山麓には広恵寺や広恵寺城城主館や武家屋敷があり、中世の福岡の中心地域であった。そこには、観音堂、石積み、礎石、古井戸、庭池、土塁や堀の跡の他に、宝匡印塔と五輪塔が残っている。まさに城ケ根は植苗木に夢の城下町を形成していた。しかし、明治初期の苗木藩の廃仏毀釈は、広恵寺跡やその周辺及び植苗木の所々に残っていたはずの広恵寺城に関する貴重な文献・文化遺産をほとんど皆無にしてしまった。
この地域紹介のタイトル「消えた中世の城下町・植苗木」の「消えた」の言葉には2つの意味を込めたつもりである。1つは、14世紀の初め(13世紀半ば?)から約200年間、植苗木には広恵寺城があったが16世紀の初めに苗木の高森に移ってしまったこと。もう一つは、広恵寺城に関する貴重な資料が廃仏毀釈によって完全に消滅してしまったことである。 地域紹介「消えた中世の城下町・植苗木」の作成を進める中で、植苗木が如何に歴史的価値をもつ地域であり、特に広恵寺跡や武家屋敷跡などが残る城ケ根山の南面の山麓を改めて貴重な文化遺跡であると認識することができた。さらに、色々と調査をしていくうちに自分なりに新たに見えてきたものがあり、それをあとがきとして残しておきたい。 |
一、「広恵寺城の初代城主は遠山景村ではなかったか。」
加藤次景廉は源頼朝の重臣で、平家打倒に貢献し1185年に恵那山麓一帯の遠山荘を与えられた。景廉の長男景朝は初代岩村城主となり遠山姓を名乗った。この遠山景朝には長男景村、次男景重、三男景員の3人の息子があった。次男景重は初代明智城主となり、三男景員が岩村城主となったことが苗木遠山家系譜や明智遠山家系譜から分かる。しかし、長男の景村についてははっきりしていないのである。広恵寺城のことが登場する苗木遠山氏の動きを記した書物に江戸時代末期に作られた「苗木伝記」と「高森根元記」と「苗木記」があるが、「苗木伝記」に限って、景村より数代にわたって植苗木に住んだことになっている。廃仏毀釈により、広恵寺城に関する資料が皆無に等しいことにより、景村についてはっきりしないことがかえって広恵寺城主であったことの証拠になるのではないだろうか。加藤氏家系譜や遠山家系譜で広恵寺城主を予想してみると遠山景村→遠山景光→遠山五郎徳治(遠山光高の兄)→遠山加藤五郎→遠山景信(福岡城主とある)→・・・ではないだろうか。景重によって明智城が1247年に築城されたことからすると、景村によって広恵寺城も1247年ごろ築城されたのではないだろうか。 |
二、「伝説ではなく、宗良親王は広恵寺城にほんとうに潜んでおられたのではないか。」
「遠山氏は代々植苗木を所領し、飛天王を氏神として崇敬していた。元弘・建武(1331〜1334年)のころ、遠山一雲入道在城のとき、世上は大いに乱れていた。後醍醐天皇の皇子・宗良親王が広恵寺城に身を寄せ潜んでおられると、近国の武士が蜂起して広恵寺城を囲み攻めてきた。味方は小勢で志気を失っていたため、入道大いに嘆き社殿に向かって一心に祈った。すると、社殿から二筋の白羽の矢が出て敵の陣中に入り、見る間に忽ち天は墨を流したようにかき曇り、雷鳴と共に車軸を流すような大雨となった。敵兵は浮き足立ってきたと見えたので、「それ天王の加護なり。者共進め。」と下知し、短兵急をきって出たので、敵兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ散った。このため、皇子は深く飛天王を崇敬し総社祇園午頭天王の八字を大書きし扁額を奉られた。」という伝説が伝えられている。当時、武家方と宮方に分かれて戦っていたが、美濃守護の土岐氏は武家方であり当然遠山氏も武家方であった。しかし、広恵寺城の福岡遠山氏だけはなぜか宮方だったのである。新田義貞と関東に下向した大名中に広恵寺城主(加藤氏家系譜では苗木城主となっているがこのころ苗木城はまだ存在していないので植苗木城主の間違いではないか。)遠山加藤五郎の名が「太平記」に記されているのである。それではなぜ、広恵寺城の福岡遠山氏だけが宮方に属する必要があったのだろうか。周りが武家方であるのに宮方に就かざるを得ない理由があったに違いない。また、恵那郡蛭川村や恵那郡福岡町高山に残る親王伝説にも宗良親王にまつわるものが多い。 |
三、「私の祖先は荒田永久ではなかったか。」
片岡寺跡を真っ直ぐに見下ろす位置に、「荒田」という屋号の家がある。今は田口さん宅であるが以前は「丹羽」を名字に持つ者が代々住んでいた。近くには代々の墓があり、確かに丹羽の姓が刻んである。自分の家もこの「荒田」(「新田」?)から出ているという言い伝えを聞いている。高森根元記によると「元正天皇(680〜748年)の養老年中に、荒田永久入道が植苗木に住み、常に仏神三法に帰依していた。ある朝、家の庭に杉苗7本が立ち並んでいたので、家人たちが不思議に思っていたところ、家童がうわごとのように「我は午頭天王の神木なり。ここにおいて守護神となせば永代に富貴繁昌を守るべし。」といった。そこで、近くの清浄の地を選んでその杉苗を植え、社殿を創立して飛天王と称し、氏神として尊崇し、荘内もこれを崇敬した。「植苗木」という地名もここから起こるものである。」とあり、荒田永久入道を植苗木開拓の先駆者としている。 シャーマンが何かに取りつかれた状態になったとき、シャーマンの側にいて、神の言葉を解釈し意志を伝える立会人のことを、大和言葉で「審神者(さにわ)」という。日本書紀には「審神者」という漢字があり、「さにわ」と読ませているのである。このように、「神者」のことを「にわ」と読むことと、荒田の「丹羽(にわ)」という姓とには何らかの関係があるのではないだろうか。 飛天王(植苗木神社)は私の家と隣接しており、私の家の土地でもある。また、私の家から飛天王を通り、ほとんど地続きで広恵寺跡までの土地も私の家のもので、広恵寺跡の観音堂の建っている所やその周りの宝匡印塔・五輪塔がある所や石積みが残っている武家屋敷跡なども私の家のものである。また、私の祖父の代に売ってしまったそうだが広恵寺城を築いた城ケ根山も私の家のものであった。これらの中世の植苗木の中心的な土地を所有していることからしても植苗木に早くから住み、しかも飛天王や広恵寺に関わったものが祖先であることは確かであろう。しかし廃仏毀釈により私の家には、それ以前の位牌は残っておらず廃仏毀釈後私が6代目となっている。廃仏毀釈がなく、私の家の位牌や広恵寺跡に文献が残っていたら私の家のルーツを探ることができたであろうと思うと残念でならない。(1998年11月) |
四、「城ケ根山麓の再興こそ福岡の発展につながるのではないか。」
岐阜県瑞浪市では、平成6年から毎年、美濃源氏・土岐氏研究講座「美濃源氏フォーラム」が開催されている。平成11年11月3日、「第6回美濃源氏フォーラム」に参加し、元首相の細川護煕氏の講演を聞く機会を得た。「地域を活性化するには、文化を大切にすることが最優先にされるべきで、産業の誘致はその次である。」と言う彼の話が強く印象に残った。 明治初期の苗木藩の廃仏毀釈により、天領であった下野区を除いて、お寺は壊され、位牌は焼かれ、石仏等も壊され地中に埋められ、福岡町は全て強制的に神道一色となった。それ以後の葬儀及び供養は全て神式になったのである。しかし、廃仏毀釈以前の人々は全て仏式で葬られていることを考えると、これらの人々を神式で供養して良いものだろうかと思う。廃仏毀釈以前の人々とそれ以後の人々とは、供養の仕方をしっかり分けるべきである。 植苗木に住むある人が私にこんなことを言われた。「福岡が今一発展しないのは、福岡にお寺がないからではないのか」と。廃仏毀釈により、お寺が強制的に壊され、そのままの状態になってしまっていることが問題なのである。 広恵寺跡の整備こそ、福岡の貴重な文化遺産を守ることであり、地域の活性化につながるものであると確信する。広恵寺の鐘が再び鳴り響くとき、廃仏毀釈以前に葬られた人々がどんなに浮かばれるかしれない。 |
2000年1月 記す |